2014年6月21日土曜日

閣外協力から自民単独へ

橋本内閣の二年半はまた、政党の合従連衡が一層進んだ時期でもあった。その点を、橋本内閣の連立の状況から解きほぐしていこう。橋本政権は三期にわかれる。村山内閣と同様、三党がそれぞれ閣僚を出す自社さ連立政権として発足した第一次橋本内閣。九六年一〇月の衆議院選挙後、自民党が単独で内閣を構成した第二次橋本内閣。第二次橋本内閣は社民、さきがけの両党が閣外協力に留まる連合政権となった。ついで、九七年九月、衆院で過半数を制した自民党が単独で内閣を組織し、社民、さきがけが閣外協力を解消した第二次橋本改造内閣。

注目されるのは第二期の、第二次橋本内閣前後の政治状況である。九六年一〇月の衆議院選挙で、自民党は過半数に達しなかった。他方、野党の新進党も負けた。これを機に、政界は再び流動化の様相を呈しはじめる。衆院選挙で、自民党は二八増の二三九、社民党は一四減の一五、さきがけは七減の二であった。

与党は、全体として改選議席数を上回ったものの、社民党とさきがけの減少分を自民党が吸収した形となった。九五年の参院選挙では、大きく議席を伸ばした新進党は四減の一五六であった。また、選挙直前に鳩山、菅らが結成した民主党は、五二を獲得した。つまり民意は引き続き、一党に過半数を与えずに連合政権を選択した。

選挙前から、社民党は、沖縄特別措置法問題などで自民党との軋蝶が重なったうえ、自社さ政権により、党の独自性が失われたことへの反省から、閣外協力に転じることを明らかにしていた。閣外協力はするが、「三年半前の姿に戻ることがないように」というのが土井社民党党首の橋本への注文であった。

こうした状況のもとで、自民党としては、社さとの閣外協力で当面、数を確保しつつも、他の選択肢を考えざるを得なくなった。社さとの協力関係は、参議院の与野党逆転を考えれば、継続すべきことは勿論であった。しかし、社さの閣外協力を得たとしても与党全体の議席は二五六と、各常任委員会の常任委員長ポストをとり、採決で多数を確保できる安定多数の二六五には遠かった。