2016年4月11日月曜日

動きはじめた地域間協力の試み

中スラウェシ州ポソ県の暴動およびその避難民対策に関する州知事会議を契機として、スラウェシでは州間の地域間協力の気運が盛り上がりはじめている。二〇〇〇年七月のマカッサル(南スラウェシ)およびマナド(北スラウェシ)を皮切りに、八月にポソ暴動の中心地テンテナ(中スラウェシ)、九月にクンダリ(東南スラウェシ)とスラウェシ州知事会議が持ち回りで開催されてきた。十月には再びマカッサルで州知事会議が開催され、地域間協力の具体的な行動計画が発表される予定である。

アルファベットのKの字をしたスラウェシは大きな一つの島だが。歴史的に全島が一丸となって動いたことはまずなかった。急峻な山岳地帯に阻まれて北部と南部、西部と東部の陸上交通は途絶していた南スラウェシの州都マカッサルと北スラウェシの州都マナドを結ぶトランス・スラウェシ道路と呼ばれる縦断道路が貫通したのは、一九八〇年代後半になってからである。地域経済もスラウェシとして完結していなかった。島の西海岸はヒトもモノもカリマンタン島東部との結びつきが強い一方、島の東海岸はマルク諸島と緊密な交易関係をもってきた。

南スラウェシのマカッサル港はそうした東西交易の結節点として重要な役割を果たしたほか、ジャワ島やヌサトウンガラ諸島の産物が集まった。スラウェシ経済圏というものは存在しなかったのである。宗教分布も多様である。イスラーム教は十六世紀に北スラウェシのゴロンタロと東南スラウェシのブトンに伝来後、十七世紀に南スラウェシに入った。キリスト教は十六世紀にポルトガルやスペインにより伝えられたが、オランダ植民地下の十九世紀以降に北スラウェシのマナドを中心に普及し、暴動のあった中スラウェシのポソ地方や南スラウェシのトラジャにはその後伝わった。

2016年3月10日木曜日

緊張状態の東アジア

国道一号線の全面舗装が完成したのは、ようやく一九六二年三月のことであった。私はスバルで川崎と関西とを往復していたので、その時期をはっきりと覚えている。また、箱根の一号線にはガードレールがなかった。関西から戻って箱根にさしかかる頃は深夜に近いが、そこでしばしば霧にまかれた。ガードレールがないので路肩には寄れない。ドアを少し開けて、中央の白いラインを見おろしながら、それに沿ってそろりそろりと走るのである。

一号線の全面舗装の翌年には、名神高速道路が、尼崎から栗東まで開通した。東海道新幹線が開通しだのが、その翌年-六四年の十月である。新幹線はそれまでの鉄道とは違って、列車の安全停止をコンピュータによってコントロールするので、技術的には運転士がいなくても走れると言われた。コンピュータ時代が身近なものとなった。

そして、その翌年-六五年十月に国鉄はみどりの窓口を開設した。それまでは、主要駅に指定券を買いに出かけると、駅員は予約センターに電話をかけて、空席の有無を確かめ、指定席の番号を知らせてもらっていた。その電話の順番を待ったり、電話がなかなか通じなかったりで、指定券を手に入れるのはひと仕事であった。それがコンピュータにより、いとも簡単になったのである。
 
東アジアでは、ちょうどその頃、アメリカの陸海空軍は全面的にベトナム戦争に介入し、中国もまた防空部隊や鉄道部隊を北ベトナムに派遣し、ベトナムで死闘が続いていたのであった。一九六六年十二月、私は読売新聞の依頼をうけて中国に出かけたのだが、鉄道で香港から深別に入った途端、文化大革命の宣伝工作隊が車両に乗り込み、はなばなしく歌を歌い楽器をかなでるのに、驚かされた。日本とはまるで別世界であった。

当時は文化大革命の初期で、毛沢東の造反有理というアピールによって、民衆による共産党幹部批判が解除されたような時代であった。解放区の初心に帰れというモラルが強調される一方、はじめて自由にモノが言えるという空気が、民衆の中にかもしだされていた。