2013年11月5日火曜日

対等な関係へ

そもそもブータンが国として成立したのは一七世紀前半のことである。本来チベット仏教の一宗派であり、ギヤ氏の氏族教団的性格が強かったドゥク派は、現在のブータンの北側の相当な地域に広まっていたが、時のチベットの世俗権力者から迫害されることになった。そこでドゥク派の長であるシャプドウンーツガワンーナムギェルは、一六一六年に自らの宗派の信者が多いヒマラヤ山脈の南麓に逃れた。その後、この地域はドゥク派の下に統一され、これが現在のブータンの起源である。言ってみればブータンは、チベットからの政治亡命者によって打ち立てられた国家である。

一八、一九世紀に入ると、イギリスは徐々にインドを植民地化し、その食指はブータンにも向けられた。ブータンとイギリスは、国境地帯の支配権を巡って敵対し、戦闘行為が繰り返された。最終的にはブータンがドワールと呼ばれる南部の土地をイギリスに割譲し、イギリスがブータンにその代償金を払うということで決着がついた。これが一八六五年に締結されたシンチューラ条約である。この条約は、一九一〇年にプナカ条約として改正されたが、基本的には何らの変更がなかった。一九四七年にインドが独立し、イギリスの利権を受け継いた。それに伴ってプナカ条約も改正され、インドーブータン条約が一九四九年に締結され、この条約が以後の両国関係の基盤となっている。ブータンにとっては、二点が問題となった。一つは、その第二条であり、その文面は以下の通りである。

「インド政府は、ブータンの内政にはいかなる干渉もしない。一方ブータン政府は、その外交関係に関してはインド政府の助言により導かれることに合意する」もう一点は、第三代ブータン国王にHis Highness(殿下)という称号が冠せられている点である。この称号はイギリス統治下のインド各地のマハーフージヤ(藩主)に対して与えられたものであり、国家元首としての国王に対して与えられるHis Majesty (陛下)より一段下のものであった。この二点からしてインドとブータンの優劣関係は明らかで、一種の不平等条約である。もちろんそれは、一八世紀以来のブータンとイギリス束インド会社・英領インドとの歴史的力関係を反映したものであるが、ブータンにとっては屈辱的なものであることに変わりなかった。

第二条の原文にはagrees to be guided by the adviceとあるが、この文言中のguideには「道案内する、統治する」といったいくつもの意味があるので、当初はインドがブータンの外交権を行使し、ブータンは外交権を持たないと解釈された。それゆえブータンは、インドの承認なしには外国人を招くこともできず、極端な言い方をすればインドの「属国」扱いを受け、国際社会からもそう見なされた。さきで触れたインナーラインーパーミット、すなわち国境地域通過許可書というブータンへの外国人入国にたいするインドの承認・拒否権なども、その法的根拠はすべてこの条約に由来する。

一九五〇年代以後、ブータンが徐々に国際社会に加わり、一九七一年には国連に加盟し、日本をはじめとする国々とも個別の外交関係を樹立するにつれ、この条項がブータンにとって大きな足柳となった。しかしブータンの開発計画は当初全面的にインドの援助によるものであり、ブータンはインドの「属国」ではないけれども、完全にインドに依存しており、少なくとも経済的には自立していなかったことも事実である。それ故に、ブータンにとっては、最大の援助国であるインドの意向を尊重することは最優先事項であったが、同時に完全に対等な独立国の地位を確立することも、国としての至上命令であった。ブータン人官吏は、インドとの交渉に当たって、インドを「大兄貴」(Big Brother)として立て、その意向に反することは極力避けつつも、その言いなりにならないように心がけた。