2013年12月25日水曜日

ワークシェアリングは仕事の内容が定型化される

総務庁青少年対策本部が五年ごとに実施している「青少年の連帯感などに関する調査」を見ると、若い人たち(調査では一五歳から二三歳が対象)が職場に対して感じている不満は、大きく二つに分けることができる。それは「賃金・待遇」面での不満と、「労働時間・休暇」に対する不満である。後者を挙げた人の比率は、同調査がスタートした一九七〇年は三二・八%、九〇年が四六・二%というように増加傾向にある。

若い世代は余暇を仕事と同じくらい大切に考えているだけに、長時間労働は彼らの不満を募らせる大きな要因になる。九ヵ月社員制は仕事と余暇生活を等位置に置くことを目指した働き方のサンプルだが、今後は多くの企業がこうした試みを行う必要性に迫られるのではなかろうか。一人ひとりの労働時間を短縮するのではなく、一つの仕事を複数の人で分担するワークシェアリングも関心を集めるようになった。

これも、仕事と余暇を同じ比重で考える人には、そのニーズを満たせる働き方ではあるが、本来ヨーロッパなどでは失業対策、つまり多くの人に働き口を提供する雇用創出の手段として、政府が実施に移してきた政策である。その実施例としては、別々の人が仕事を午前と午後、あるいは曜日によってシェアし合うなど、さまざまな方法が導入されている。ワークシェアリングは仕事の内容が定型化され、しかも時間単位で区切ることができないと導入は難しいが、日本では高齢者の新たな仕事形態として注目され始めている。

例えば公共職業安定所のなかには、「ペア就職作戦」などと銘打ったりして、高齢の求職者を二人一組のペアで企業に紹介したりするところも出始めている。こうした作戦の本来の目的は、再就職にともなう年金支給の停止や減額を避けることにある。半日勤務・隔日勤務は常用雇用とは認められないため、社会保険の被保険者にならず、年金もカットされずに済むからだ。低賃金を覚悟しなければならないので、若い世代や子どもの教育費がかかる中年世代がこうした働き方を選択するのは無理かもしれない。当面は女性や高齢者の雇用に取り入れられる形で進むと思うが、ゆとりある生活を模索するうえで、もっと定着が図られてもいい。

三、四○代の男性は忙しすぎるので、時間的に余裕がある高齢者や子育てを終えた主婦が仕事の一部を肩代わりするという形での「年齢間のワークシェアリング」の必要性も説かれるようになった(経済企画庁『一九八九年版国民生活白書』)。ワークシェアリングは、ヨーロッパでは前に述べたように雇用創出の手段だが、日本の場合は仕事を再配分し、ゆとりを創出する手段としての色彩が濃い。九ヵ月社員制にしろワークシェアリングにしろ、働くスタイルとしては新顔だが、仕事のありようを変える革新性を秘めている。

2013年11月5日火曜日

対等な関係へ

そもそもブータンが国として成立したのは一七世紀前半のことである。本来チベット仏教の一宗派であり、ギヤ氏の氏族教団的性格が強かったドゥク派は、現在のブータンの北側の相当な地域に広まっていたが、時のチベットの世俗権力者から迫害されることになった。そこでドゥク派の長であるシャプドウンーツガワンーナムギェルは、一六一六年に自らの宗派の信者が多いヒマラヤ山脈の南麓に逃れた。その後、この地域はドゥク派の下に統一され、これが現在のブータンの起源である。言ってみればブータンは、チベットからの政治亡命者によって打ち立てられた国家である。

一八、一九世紀に入ると、イギリスは徐々にインドを植民地化し、その食指はブータンにも向けられた。ブータンとイギリスは、国境地帯の支配権を巡って敵対し、戦闘行為が繰り返された。最終的にはブータンがドワールと呼ばれる南部の土地をイギリスに割譲し、イギリスがブータンにその代償金を払うということで決着がついた。これが一八六五年に締結されたシンチューラ条約である。この条約は、一九一〇年にプナカ条約として改正されたが、基本的には何らの変更がなかった。一九四七年にインドが独立し、イギリスの利権を受け継いた。それに伴ってプナカ条約も改正され、インドーブータン条約が一九四九年に締結され、この条約が以後の両国関係の基盤となっている。ブータンにとっては、二点が問題となった。一つは、その第二条であり、その文面は以下の通りである。

「インド政府は、ブータンの内政にはいかなる干渉もしない。一方ブータン政府は、その外交関係に関してはインド政府の助言により導かれることに合意する」もう一点は、第三代ブータン国王にHis Highness(殿下)という称号が冠せられている点である。この称号はイギリス統治下のインド各地のマハーフージヤ(藩主)に対して与えられたものであり、国家元首としての国王に対して与えられるHis Majesty (陛下)より一段下のものであった。この二点からしてインドとブータンの優劣関係は明らかで、一種の不平等条約である。もちろんそれは、一八世紀以来のブータンとイギリス束インド会社・英領インドとの歴史的力関係を反映したものであるが、ブータンにとっては屈辱的なものであることに変わりなかった。

第二条の原文にはagrees to be guided by the adviceとあるが、この文言中のguideには「道案内する、統治する」といったいくつもの意味があるので、当初はインドがブータンの外交権を行使し、ブータンは外交権を持たないと解釈された。それゆえブータンは、インドの承認なしには外国人を招くこともできず、極端な言い方をすればインドの「属国」扱いを受け、国際社会からもそう見なされた。さきで触れたインナーラインーパーミット、すなわち国境地域通過許可書というブータンへの外国人入国にたいするインドの承認・拒否権なども、その法的根拠はすべてこの条約に由来する。

一九五〇年代以後、ブータンが徐々に国際社会に加わり、一九七一年には国連に加盟し、日本をはじめとする国々とも個別の外交関係を樹立するにつれ、この条項がブータンにとって大きな足柳となった。しかしブータンの開発計画は当初全面的にインドの援助によるものであり、ブータンはインドの「属国」ではないけれども、完全にインドに依存しており、少なくとも経済的には自立していなかったことも事実である。それ故に、ブータンにとっては、最大の援助国であるインドの意向を尊重することは最優先事項であったが、同時に完全に対等な独立国の地位を確立することも、国としての至上命令であった。ブータン人官吏は、インドとの交渉に当たって、インドを「大兄貴」(Big Brother)として立て、その意向に反することは極力避けつつも、その言いなりにならないように心がけた。


2013年8月28日水曜日

欧米人観光客はなぜ沖縄に来ないのか

「入域観光客統計」によれば、沖縄にやって来た外国人観光客は、二〇〇四年が一二・九万人、〇五年が二七万人、〇六年が九・二万人、〇七年が一七・五万人となっている。これを沖縄に来島した総観光客数から割り出すと、最大の〇七年でもわずか三%にすぎない。その前年などたったの一・六%だ。ところが、沖縄を訪れた観光客に尋ねると、たいてい「沖縄にアメリカ兵以外に外国人っていたっけ」という。そうなのだ。たびたび沖縄に行く私でさえ、欧米人観光客に会ったのは数度しかない。最近ではカナダからやってきたカップルだった。これは、外国人観光客=白人と誤解しているからである。

法務省の「出入国管理統計年報」によれば、沖縄にやってくる外国人観光客のうち、台湾人が半分の五三%を占め、それに次ぐのが韓国人だ。あとは中国人とフィリピン人が数%で、アメリカ人が七%となっている。ヨーロッパ人は「その他」に分類されていて数字には出てこない。つまり、数えるほどしかいないということだ。アメリカ人観光客もそれほど目につかないのは、純粋に観光というよりも、米軍基地の関係者ではないかと思われる。極論を承知で書けば、沖縄にやってくる外国人観光客はアジア人だけで、欧米人はほとんど沖縄には関心がないということである。

地元の観光業者に聞くと、台湾人は免税店などで買い物をするのが目的で、韓国人はゴルフだという。豊かになった台湾人がクルーズ船に乗って団体でやってきては、日本の電化製品やブランド品を買い漁っていく。韓国人が多いのは、寒い国から暖かい国でゴルフ三昧に浸りたいからだろう。本題に戻るが、沖縄県が『ビジットおきなわ計画』で、〈欧米地域等についても沖縄の独自性を有する観光資源を活用した誘客促進を図ります〉と書いているのに、欧米人観光客がちっとも沖縄にやってこないのはどうしてだろう。まず宣伝不足が挙げられる。しかし、知人のアメリカ人がこんなことを言った。たった一人の証言だからすべてに当てはめるわけにはいかないが、参考にはなると思う。

「沖縄は亜熱帯気候で自然が素晴らしいと言うが、すべてが中途半端なんだ。那覇はパチンコ屋と自動販売機と排気ガスが充満した街だし、海だってピンポイントで観れば美しいが、全体を眺めたらたいしたことはない。亜熱帯気候なのにのんびりと木陰で過ごせるようなところもなく、高級リゾートホテルも皮一枚はがせば、まがいものが透けてくる。そうそう、高級リゾートホテルで有名なブセナテラスに泊まったが、カフェテラスから見える滝の石垣はプラスチックだったよ」本来の観光とは、そこに住む人の文化を見せること重ねて言うが、観光とは光を観ることである。その光は観る者に感嘆と安らぎを、あるいは心地よさを与えるものであって、目障りなものであってはならない。

そんな景観に乏しいのは、観光で生きていくという毅然としたポリシーがなく、すべてが中途半端なままだからだ。地方都市がまがい物で固めたような町に変わるのは珍しくないが、沖縄ではそれが致命傷になりかねない。日本の観光は素材を宣伝して人を呼んでくれば成り立った。恰好の例がテーマパークだ。スキー場をつくり、温泉を掘り、たくさんの人が来ればたくさんのお金が落ちる。お金が落ちれば町が豊かになるとばかりに、地元とは関係のないテーマパークをつくり、はてにはアダルト産業まで誘致した。それが日本の観光だった。本来の観光とは、そこに住む人の文化を見せることだ。文化とは短期で変わってしまうものではない。目に見えるものも目に見えないものも、時間で簡単に変質しないものが文化であり、それを見せるのが本物の観光なのだと思う。

2013年7月4日木曜日

公的支出の費用対効果が極めて高い外国人観光客誘致

「観光は、農業から、製造業、建設業、不動産業、金融業、その他サービス業まで、あらゆる地域産業を活性化する総合産業です」というのは、私の尊敬するこの分野の一大実践者兼論客、観光カリスマの山田桂一郎さん(スイスーツェルマット在住)の指摘ですが、この明らかな事実に気づかずに「日本はモノづくり(だけ)の国」と言い張って、しかも内需対応ではなく輸出だけに注力してきたことを、我々は今度こそ真剣に反省せねばなりません。観光はモノの内需も増やすのです。しかしビジョンはともかく、潜在的な市場をどうやって顕在化していくかという戦略・戦術に関しては、多大な工夫と努力、過去のやり方との湖距が求められます。

特に最大のボトルネックが、旅行代理店、宿泊業者、自治体の観光担当や観光協会、という既存観光関係者の「惰性のトライアングル」です。これは私か山田桂一郎さんなどと一緒に数多く講演させていただいている分野なのですが、その詳細は一冊の本をなすべきものなので、今回まったく触れていないまちづくりの話と同様、別の機会に譲らせていただきます。以下では、残された論点である政府の関与の話について補足するにとどめることをお許しください。私はこれまで随所で、「政府に景気対策を要求する前に、企業が生き残りのための行動としてまず自助努力すべきだ」と語ってきました。外国人観光客増加に関しても、既存観光関係事業者の努力が一丁目一番地であるという認識は変わりません。ただこの分野に関しては、諸外国に比しても日本政府の関与が極めて少ないので、その問題も指摘させていただきます。財源がない政府ではありますが、外国人観光客誘致は、費用対効果から考えればもっと歳出を回すべき分野の典型に思えるのです。

日本政府も、観光立国を掲げ、観光庁を設置するなど、観光分野に注力し始めました。しかし彼ら担当者の努力にもかかわらず、観光分野への実際の政府予算配分は微々たるものです。たとえば外国人観光客を誘致するのが任務の「日本政府観光局」。世界各国が持っている組織ですが、日本の場合には観光庁所管の独立行政法人「JNTO」がこれに当たります。この組織の存在自体をご存じでしたでしょうか。このJNTOの年間予算は〇八年度で三四億円。うち政府の補助は二〇億円のみで、あとは民間企業の賛助金や自前の調査・統計の売上など。職員数は海外事務所の現地採用含め一四〇人弱といったところです。これに対して、たとえば人口が日本のニ八分の一しかないスイスの政府観光局(同じく特殊法人)では、。職員が二二〇名余り、年間予算は七〇億円程度(うち政府補助四二億円)です。

ちなみにスイスは連邦制国家でして、もちろんこれ以外に各地域が観光のプロを養成して自前の観光局を持っています。人口が日本の二五分の一のシンガポールを見ますと、職員が五七〇名、年間予算はこ一〇億円となっています。国力や人口に比して、日本では余りに国際観光に力が入っていないということがおわかりでしょうか。実際にもマンパワーや予算に余りに制約が大きいもので、外国人観光客誘致の本当のプロの育成が十分にできていませんし、海外事務所などの現場は「いくらでもやるべきこと、できることはありながら、手が回らない」という厳しい現実に直面しています。

何も、「人口比でシンガポール並みに、年間三千億円かけろ」というつもりはありませんが、たとえばこの予算を(たったの) て○○億円増やした結果として、外国人観光客の国内消費が年間一兆円から二兆円へと倍増するとすれば、兆円単位を使ってもその全額が消費に回るとはまったく限らないいろいろな給付金だの手当てだのに比べても、恐ろしく効率のいい買い物です。現実に政府が「ビジットージャパンーキャンペーン」を始めてからの一〇年弱で、日本を訪問する外国人の数も国内で消費する額も倍以上に増えているのですから、決して空想を語っているわけではありません。いまどき政府関与の潜在的な経済効果がこんなにある分野は、なかなか存在しないのではないでしょうか。なぜこの成長機会が放っておかれたのでしょう。

2013年3月30日土曜日

白黒写真の面白さ

目で見た情報が脳を経由してシャッターボタンを押す指先に達するまでに、約1/30秒かかるといわれています。この1/30秒先が読めなければ、動きの激しいスポーツ写真は、少なくとも自分の見た瞬間と同じには撮れません。機会があったら、一度、あなたの身近な人のゴルフスイングのインパクトの瞬間を撮ってみてください。クラブヘッドとボールが密着している写真が撮れれば満点、画面にインパクト後のボールが写っていれば九十点はあげられます。おそらく、ほとんどの人は打ち終わったあとの姿しか撮れていないはずです。決定的瞬間は1/30秒前だったのです。

プロ野球選手は、百五十キロ近いスピードで投げられたボールをバットの芯に当て、はじき返します。ピッチャーは相手を打たせまいと球速を変えたり変化球を投げたりしますが、よいバッターになると、三回に一回はヒットにします。打者は、ボールがマウンドからバッターボックスまでのわずか十八・四四メートルを飛んでくる間に、打つか打たないかの判断をし、好球と見ればバットを振るわけですが、好調のときの打者は、そんなとき、よくボールが止まって見えるという表現をします。目にも止まらぬ速球が止まって見えるというのは、ボールがブレもボケもせずに見えているということでしょう。こうした選手は、間違いなく1/30秒先を予測する能力と、瞬時に焦点移動ができる視力を持ち合わせているのです。

アメリカ大リーグで、唯一人、シーズンを通して打率四割を達成したテッドーウイリアムズは、回っている七十八回転レコードの上の文字が読めたといいます。日本の誇る四割打者イチロー選手も、もしかしたら「置きピン」というワザを使っているのかもしれませんね。一流のスポーツ選手、特に野球やテニス、サッカーのような目まぐるしく動くボールを追う選手や、スピードスケート、スキー、FIレーサーのような速さを競う選手たちは、一様にきれいな澄んだ目をしています。カメラでいえば、レンズの口径が大きく、しかも明るく、解像力抜群で、ピント合わせの性能も優れている、とでもいいましょうか。

もちろん、写真を楽しむのにプロ野球選手並の視力は必要はありませんが、スポーツ写真にかぎらずスナップ写真やポートレートを撮るときも、次の瞬間を先読みする習慣を身につけておくと対応が楽になります。白黒フィルムを現像するかつて、写真は「光と影の芸術」といわれた時代がありました。「光と其諧調」と名づけられた大正時代の写真芸術の理論から派生した言葉です。当時の写真を見ると、人物、風景を問わず画像の中に黒い影が大きくあって、とても寂しく暗い感じを受けます。

別にその頃が、いまより特に暗かったわけではありません。当時はフィルムの感度が鈍かったこともあり、撮影する前にしなければならない儀式、たとえばアングルを選び、構図を決め、ピントを合わせ、適正な露出を算出するといったことに、より時間がかかりました。そのため、動きの速いものを撮るのは無理なので、光と影の変化の美しさを、白と黒の階調の中で追求しようとしたのではないか、と筆者は想像しているのですが、どうでしょう。