2015年12月10日木曜日

もともとは債券が評価対象

実際に為替レートが切り下げられると、輸入物価の上昇や外貨債務の返済負担の増加などによって経済運営に悪影響が及び、格付け機関は再び格下げを行わなければならない羽目に陥ることになる。このような短期資本の活発な移動が、格付けに対する反応をこれまでとは異なるものにしている。九八年十一月のAPEC首脳会議の宣言には、国際的に移動する短期資本の流れを監視する指針をつくることに加えて、格付け会社(APECは格付け機関が民間企業であるので格付け会社と呼んでいる)の活動を再点検することが盛り込まれた。

原因は、格付けの意味がよく認識されていないことである。特に、拓銀や山一についてはヽ不良債権の額や財務内容の悪化から破綻はやむを得なかったものと思われるが、格付けが過剰に報道された。格付けは、債券や預金、保険などについての償還の確実性の程度を簡単な記号によって示すものである。したがって、社債、国債、外債の保有者や、預金者、生損保の加入者などがリスクの情報として利用するものである。

格下げが行われると、むろん株価への影響も考えられるが、株式はもともとリスクを負担する資本であり格付けの対象にはならない。格付けは、契約によって償還や支払いを約束したものが約束通りに返済されるかどうかを判定するものである。高利回り債(通称シャングーボンドと呼ばれる)のようにリスクが高い債券、すなわち格付けが低い債券でも、契約通りに高利回りを支払いできれば社会における存在価値は高く認められる。トリプルB以上の債券は「投資適格」と称されるが、ダブルB以下の債券は償還の確実性の観点から「投機的」と呼ばれるのであって「投資不適格」であるわけではない。

格付けが、本来の目的を離れて企業の品格や企業の価値の尺度として使われると「負の循環」が発生するようになる。こういった事情から一九七〇年代の初めまで、ニューヨーク州では銀行に対する格付けが法律によって禁止されていた。格下げによって預金の引き出しが発生し、銀行倒産が起きるのを防止するためであった。日本では、最近までは格付けが何であろうと実害がなかった。しかし、急テンポで市場経済化している今日、格付けが重要になってきている。格付けに対する正しい理解がないと、市場が混乱するばかりでなく個々の企業も投資家も実害を被る。一九九七年頃から急に格付けがクローズアップされてきたのも、日本経済のこのような環境変化を反映しているのである。

格付けの評価対象は、もともとは債券だけであった。債券には、民間企業が発行する普通社債・転換社債と国や地方公共団体が発行する国債、地方債、政府機関債などがある。債券の英語名は、ボンド(通常、無担保のもの)あるいはディペンチャー(担保付き)であるが、要するに証券のうちの負債(ぽ巳を債券と称している。負債は金利や元本の返済時期・方法があらかじめ決まっているので、その通りに返済できるかどうかを評価して貸し手(投資家)に情報として知らせるのが「格付け」である。証券のうちの株式(普通株式)は、返済されず、配当もあらかじめ決まっているわけではなく利益の状況によって変化するので、「格付け」の対象にはならない。ただ、優先株式は配当率や優先の程度などがあらかじめ決められているので、その通りに行われるかどうかについて「格付け」の評価対象となる。

2015年11月11日水曜日

グロバールな金融市場の野放図な拡大

国際決済銀行は、一九八六年三月と四月に驚くべき二つの報告書を公開した。一つは委員会レポートと称される。銀行の簿外業務リスク(貸借対照表未記載の対外偶発債務)の明細一観表であり、一つはグリーン・プランと呼ばれる最近の金融資本市場における金融ハイテク技術の詳細な解説書である。両報告とも公的には各国中央銀行に宛てられており、近来日進月歩の市場金融技術の具体的分析であるが、その意図は、各中央銀行の金融資本市場動向監督の実効を向上させるための管理マニュアルである。

ユーロ市場のリスクはただちに個別国内市場の危険に直結する。BISがかかる報告書を出さねばならぬような状況とは一体なんであろうか。これはまさに、グロバールな金融市場の野放図な拡大と、それに伴って、いやそれ以上に拡張しつつある偶発金融リスクの質・量ともにの増幅の実態を、中央銀行の中央銀行ともいうべきBISが、心中深く危惧し、密かに備えるべきとする警世の書であると見るのは杞憂であろうか。

2015年10月10日土曜日

東京向けのマンション

ここで新しく考えた独自の手法が三つある。その第一は、商業地域内における住居容積を制限しようというものである。商業地域とは本来、商店、デパート、業務用のビルなどを建てることを予定して定める地域である。したがって容積率も高く、最低でも四〇〇χ、最高は1000%ということになっている。一般には駅に近い便利なところを商業地域に指定しているが、横浜のように東京に近く便利なところでは、本来横浜市にとって必要な業務ビルや商業施設は建たず、そのかわりに東京向けのマンションが立地することが多い。

こうしたマンションが四〇〇%とか、六〇〇%とかの密度で建つと、じつにたいへんなことになる。住宅相互の日照が確保されないのはとうぜんだが、子供たちの遊び場もとれない。がりに五〇〇%の住居が建つということは、大体それと同じ面積ぐらいの小、中学校が必要ということになり、マンションと学校とが交互に建っていなければならなくなるだろう。それにしては、商業用地のようなところでは、学校のようにまとまった大きな土地はえにくいし、また地価玉尚く、とうてい取得は困難である。

現に、磯子駅前に、容研制の出来る以前に、住宅公団が高司住宅を建てたが、これがひじ上うに高容積になるために、地区の学校では収容しきれない。そこで一階に予定していた商業施設をやめてもらい、安く市に譲ってもらって一階部分を一~三年までの低学年用教室にあててみた。いろいろ問題はあるが、高容積とはそうした学校の必要性を意味することを、示しておきたかった。高容積にはしたい、学校はゆっくりとるというわけにはゆかないのである。ヨーロッパの都市では、このような住宅と併用の学校も多い。

また、同じく磯子で高川マンションが複数同時に建つ計画があり。容積制以前ではあったが、なんども交渉の結果、協定をむすび、容積を制限してもらい、小さいながらもこの住宅群に見合う小学校用地を、無償提供してもらった。こうした交渉は長く時間とエネルギーを要する。そうした時期に容積制が生まれたのである。これを活用しない手はない。ところが磯子駅前のようなところは、駅前の広い埋立地であって、用途地域上は商業施設や業務施設があってもよく、商業地域に指定される。そうすると容積は一番低くても、四〇〇%になる。

不動産業者としては、目いっぱい、マンションを建てるだろうが、これでは同じような問題がおきる。それにマンションを建てたい人びとは、四〇〇よりは五〇〇、五〇〇よりは六〇〇%を希望して、圧力をかけてくるであろう。こうした情勢を踏まえて考案したのが、用途別容積制である。もともと商業地域の容積は、商業、業務施設を予定して、高く定めてある。これが住宅となるなら、そんなに高い容積である必要がない。住居環境としてはぎりぎりの環境である二〇〇%を上限にしてよい。現に横浜の住居地域では、二〇〇%を上限としている。

2015年9月10日木曜日

園内道路の蓋がけ工事

世論から大きな支持を得た緩傾斜護岸は、以後、隅田川の護岸方針になり、現在進められている「水辺のテラス構想」につながっている。当初、チマチマした箱庭のようにつくられていたテラスも、最近では土木空間にふさわしいゆったりした空間デザインに変わっている。しかしよい面ばかりではない。隅田公園といい垂直護岸といい、何かの事業がおこなわれる度に隅田川の川幅は狭められてきた。いままた緩傾斜護岸、水辺のプロムナードといわれながら、隅田川の川幅は狭められている。両岸に高層の建物が建ち並ぶとともに、隅田川のもっていた空間の広さや雄大さが失われてきている。

桜橋の墨田区側の快では、アプローチを遮断していた園内道路の蓋がけ工事がなされ、橋と隅田公園とが一体的に利用できるようになった。考え方は評価できるが、すぐ上には高架道路が走り、頭上がおさえつけられるような感じである。いっそのこと高架道路を地下化する方が、二一世紀に大きな財産を残せるのではないかと思う。全部は無理としても、吾妻橋の快から隅田公園部分までは地下化したいものだ。一〇年間四三〇兆円の公共事業費は、有意義に使ってもらいたいと思う。今回の蓋がけ工事はその布石と考えたい。

山下公園も、一見したところ大きく変わった。まずそれは公園内を通る臨港貨物線の高架鉄道である。道路と鉄道と機能は違うが、隅田・山下両公園ともに高架構造物が戦後つくられたのである。しかし臨港貨物線の方が望みがある。横浜博覧会のときに一時利用されたが、現在は廃線になっているので、撤去される日も近いのではなかろうか。

海側部分も大きく変えられた。公園の四分の一の地先が、埋め立てられ、港の眺望が大きく失われた。それでも公園の面積は昔と同じである。一時期公園の東側は下水道局のポンプ場になっていたが、現在は地下化され、地上部は駐車場になっている。その上を公園がおおい、平面的な公園に立面的な変化をもたせている。

配置計画で大きく変わっだのは、ボート溜りをふくむ東半分であり、西半分は当初の配置形態かほぼそのまま残されている。海上からもアプローチできた魅力的な公園は。今もなおその痕跡をとどめ、バルコニーは健在である。しかし残っているのは二力所だけ。東側のバルコニーは、地先部分の埋め立てとともに陸続きにされてしまい、残された縁石だけががっての存在を物語っている。

もうひとつの特徴であったボート溜りは、戦後埋め立てられ、現在は周りより一段低いシングーガーデン(沈床花壇)に変えられてしまった。中央の噴水の位置は変わらぬが、設備は更新され、姉妹都市のサンディエゴから贈られた「水の守護神」の石像がまん中に飾られている。うれしかったのは、噴水の両側の大パーゴラが健在だったことだ。しかもスクラッチータイルの貼られた柱や、煉瓦の敷き詰められた路面も、昔のままなのである。

2015年8月12日水曜日

欧州偏重という異論

当時から、新常任理事国の資格があると目されていたのは日本とドイツだったが、ドイツに対しては、P5の中でも英国とフランスからの反発があった。もしドイツが参入すれば、欧州からの常任理事国は三力国になり、地理的配分から言って欧州偏重という異論が出る可能性があった。その声は、英国、フランスの地位を脅かすかもしれない、という不安がつきまとっていた。さらにイタリアも、ドイツが参入するならその機に合わせて理事国入りを図る構えを見せており、問題が紛糾する恐れがあった。

他方、かねてからブラジル、インドなどの地域大国も、安保理改革が実現すれば常任理事国になる資格があると考えており、日本とドイツが参入すれば、これらの国々も立候補すると見られていた。米国は当時、「ドイツが入れば英国とフランスとの間で問題が生じる。それ以外の国の参入は認められない。日本だけならいいが、そうすれば他の国が黙っていないだろう。まだ時期尚早だ」との立場を取っていた。憲章改正は「パンドラの箱」を開けるようなものであり、ようやく活性化した安保理の動きに水を差すと考えていたのである。その結果、米国連代表部は、日本の意向に対しては好意を示したものの、当時担当だったボルトン国務次官補らが難色を示し、ブッシュ政権にはこの議題を上げなかったと言われる。

2015年7月10日金曜日

アメリカが長年培ってきた世界一の力

中国の成長は今後鈍化していくことが予想されるが、それでも、アメリカよりは相当上に行き、世界で一位を確保することと思う。インドも、科学技術の発達などの恩恵により、米中に次ぐ第三の地位を確保する可能性が高いだろう。しかし、これがそのままアメリカの凋落を示すわけではない。人口が数倍の中国がアメリカを規模で上回ってもそれ自体が大きな問題ではないからだ。我々は実質を見なければならない。アメリカは2050年になっても相当な強さを維持するものと思う。それは主に次の点があるからだ。移民を取り込むことで、人口の増加が続き、高齢化も抑制される。一方、中国では一人っ子政策のため、人口の減少と高齢化のダブルパンチを受けるとみられる。

国連の予想によると、2050年に中国では全人口の31パーセントが60歳を超えるのに対し、アメリカは25パーセントにとどまるとのことだ。科学技術の方面での強みは2050年にも引き続き発揮されるであろう。グークルやアップルを超えていく企業はアメリカから今後も次々に現れていくと思う。しかし中国に同じことは期待できないのではないか。中国やブラジルなどの国家資本主義がこれから力を伸ばしていくと思われるが、一方でアメリカの推進する自由主義・資本主義も、世界のもう一つの柱として力を持ち続けていくだろう。また、ハリウッド映画やハンバーガーやコーラなども残るのではないか。

やはり、アメリカが長年培ってきた世界一の力はそう簡単には凌駕できないということだ。しかし、一方でさまざまな問題も予想される。最大の問題は、4億人に増えるアメリカ国民が中流以上の暮らしをしていけるのか、ということだ。食糧やエネルギーの不安もあるが、それ以上に中流の生活を可能にするような仕事が果たして残っているのか、というのが大問題だ。そのころのアメリカは今よりも貧富の差がさらに大きくなっているだろう。一部のエリートはニューヨークやシリコンーバレーなどに住み、貴族のような生活をするようになるだろう。知的な仕事はバーチャルなものが主流になるだろうが、その反面、人々はリアルな結びつきを求めるため、ますます大都市への集中が進むと思う。

一方、一般層は相当苦しくなることが予想される。中国人の賃金は相当上がるだろうから、中国への仕事の流出は減るだろうが、伝統的な仕事が大幅に減ってしまい、失業者が大幅に増え、賃金が下がるだろう。結局、アメリカ分断への動きは今後さらに加速する、ということだ。そのため深刻な社会問題が数多く起きると思われる。これに対して政府が有効な対応策を提示できればよいが、楽観視できない。むしろ貧富の差が広がるほどイデオロギーが重視され、人々の対立をあおることになると思う。

国全体としては、経済力・軍事力で中国の後塵を拝するようになったときに、どう世界と向き合うか、という問題がある。アメリカは今まで世界一の国力で世界中に睨みをきかせることができた。しかし、二番手になったとき、自分の存在意義をどう見いだせるか。「世界一が当たり前」「世界一が大好き」のアメリカ人に心理的に与える影響も大きいだろう。結局、どうしても暗い方向の予測になってしまう。政治が転換し「イデオロギーよりも現実」という方向にうまく軌道修正することができなければ、国は実質的に分裂する、というシナリオが現実味を帯びてくる。

2015年6月10日水曜日

追加的な負債増加能力

国内流動性の過剰創出とその収縮過程でべフルの発生と崩壊が起こっているとすれば、金融面では見事な非対称性が生じる。バブルの膨張期においては、株式や不動産への投機家側に立てば、バランスーシート上は資産サイドと負債サイドが両建てで拡大する。負債に依存して資産を増加させても、市況の騰貴が当初の負債に対する担保負担を大きく凌駕してしまう。

すると追加的な負債増加能力が生じることになる。これが繰り返される過程、がバブルの生成期になる。一方、バブルが何らかの原因で収縮期を迎えると、株価や不動産市況の急落を反映してバランスーシート の資産サイドの実体的価値が縮小する。だが、負債サイドは、借金の元本を返済しない限りは縮小しない。すなわち、株価などの大幅な下落が生じると、それに合わせてバランスーシート上での資産サイドの価値が減価するとしても、負債サイドは縮小しないといっか非対称的な動きとなる。

バブル期に投機家への貸し手であった金融機関側に立ってこの状況をみると、バランスーシートの資産サイドには貸出金が計上されているものの、この資産の実体的価値が大きく減価していること、か判る。そしてこの貸出金が、悪くすれば不良資産へと転化する。また、株価や不動産市況の騰貴があまりにもいき過ぎたものであれば、それに付随して、バブル崩壊期には不良資産が膨大な規模となる。

金融機関にとっては、バランスーシート上の負債は預金の受入れや債券発行により調達したもの、及び他の金融機関からの借入金などである。また、これらの負債は、バブル崩壊を反映して資産である貸出金の実体的価値がいくら下落するとしても、決して減少しない のである。そして、この資産サイドと負債サイドの非対称性こそが、いき過ぎたバブルが崩壊した場合に、金融システムを不安定化させる根本的背景となる。

金融システムの不安定性を強めるもう一つ別のメカニズムは、経済活動の金融的側面と実物的側面との間における相互作用である。九〇年初めから始まった今回のバブル崩壊の影響は、当初は金融面に強く出てきた。これが実体経済にデフレ的悪影響を及ぼしてくるには若干のタイムーラグがあったものの、ひとたび実体経済の後退が始まると、今度はそれが金融面に跳ね返りだしたのである。そして、これが金融システムの悪化に追加的インパクトを及ぼすことになった。まさに悪循環過程の定着といえた。九二年に入って、株式市場が金融システムの危機に対して警戒シグナルを送りだしたのは、こうした状況を背景にしたものであった。

2015年5月15日金曜日

経済原則に従って既存の制度・慣行が改められていく可能性

外国人労働者の流人も大きな問題になってきている。正規のビザを持つ労働者は、87年で2万5千人程度だが、不法就労者は10万人にも達するといわれている。円高以後は建設現場の土木作業員、飲食業の皿洗いなどの単純労働での就業者が急増している。とくに東南アジア諸国からの流入が目立つ。確かに、最近の東京では地ド鉄や電車に乗ると、回りに外国人を見かけることが多くなった。マイホームの工事現場で大工さんに話しかけてみたがどうも話が通じない、それもそのはずで日本人ではなかったという話とか、大工の棟梁が大学の教授に、「大学の先生は日本語で仕事ができるからうらやましい」といったという話もある。こうなるのは経済的には当然のことである。供給側から見ると、日本の賃金が世界一だということは、日本に行って働けば世界一の所得を稼ぎ出すことができるということに他ならない。

例えば、「エコノミスト」誌の試算だと、東京の賃令はハンコックの五倍以上となっている。自分の国では想像もできないような高額の賃金を稼ぎ出すことができるのだから、日本にあこかれるのも当然である。もっとも東京で仕事をすると、東京で生活しなければならず、かなり生活費が高くなることを考えると、外から見た日本の高賃金も額面どおりは受けとれない面もある。次に需要側から見ると、目本の企業にとっては円高により海外の労働者をきわめて安く使えるようになった。今ではできれば外国人労働者を雇いたいという企業がずいぶん増えている。89年10月に行なわれた経済企画庁のアンケート調査によると、約三分の一の企業が「外国人雇用に対して、職種に制限をつける必要はない」と答えている。

また、現在外国人を雇用している企業は全体の62.7%に達しており、それ以外の企業でも21.9%が今後外国人を雇用する意向があるとしている。日本では。技能労働者の受け入れは認められているが、単純労働者は原則として受け入れていない。就労を目的として日本に入国が認められているのは、外資系の企業管理者、大学教授、興業活動者、高度な技術提供者、外国料理の料理人などの熟練労働者、外国語教師といった人々に限られている。この問題は経済原則だけで割り切るわけにはいかない問題であり、だからこそむずかしい対応を迫られている。西欧でも人出不足への対応策として外国人労働者に頼る時代があったが、それが失業者のハードコアになってしまったり、受け入れ国で生まれた第二世代の帰る国がなくなったり、異文化同士の摩擦が生じたりといった問題が出ている。外国人労働者の受け入れについては、国民的レベルでの相当の覚悟が必要である。しかし、前述のような経済原則から見ると、外国人労働力が日本の労働市場に参入してくるのは逆らうことのできない流れであるようにみえる。経済の大きな流れに逆らった政策・制度は長続きしないというのがこれまでの経験の教えるところである。長期的にみると、既存の制度・慣行によって経済原則が改められるよりは、経済原則に従って既存の制度・慣行が改められていく可能性が高いと思われる。

2015年4月10日金曜日

プロジェクト方式

現在のところ長期総合計画の中で、これらの欠点のすべてを是正してゆくことは、できそうもない。国との関係でも、自治体の主体性を認めた制度になっていないし、また社会経済の変動を的確につかむことも、困難だからである。このような長期総合計画は、せいぜい自治体行政の座標軸や物指していどの意味しかもちえないだろう。つまり動的なエネルギーをもつ計画ではなく、静的な尺度的な意味のほうが強い。こうしたものが無用とはいわないが、当時の横浜市のような、重症患者には効果が少ないのである。

そこで、このような長期総合計画を少しばかりいじくるという姑息な手段をやめ、ぜんぜん別な観点から、横浜の現在の問題に立ち向かう方法を考えた。それがプロジェクト方式と呼ばれるものである。これは横浜の将来を見越して、戦略的な視点に立ち、特定の基幹的事業を選びだし、重点的に推行することによって、横浜市の内臓や骨格をととのえ、焦点をしぼりながら、しだいに他の行政全体にも活力を与え、横浜の都市づくりを行なってゆこうというものである。

この当時の自治体行政は、無力感とマンネリズムが先立ち、タテ割りの型にはまった行政では、少々がんばってみてもなかなかこれを変えることはできないでいた。そこで、戦略的にはまちがいないという大局をおさえなから、あえて従来行政の枠をこえる困難な大プロジェクトをおこし、かなり荒っぽく活力を呼びおこして問題にぶつかろうという戦略である。

自治体は「いかにあるべきか」「なにをすべきか」という[べき論]も必要だが、それだけでは評論に終わってしまい、現実の中の力にはなりにくい。かといって、「現状はこれしかできないのだから」「予算も権限もない」という現実論にとどまっているままでは、なにひとつ問題は解決しないし、解決に向かって動きださない。

総合計画的なものは、たいてい総論は[べき論]だが、事業計画になると「現実論」にとどまっている。理念に到達する手段をもたないので「べき論」、「理念論」は、残念ながら、たんなる抽象的文章で終わってしまうことが多い。これに対して「プロジェクト方式」は、きわめて具体的であり、誰にとってもきわめて明白であり分りやすい。そこでは、「やる」か「やらない」かの、実務的な問題にたる。またどうやるかという具体的な方法の是非が問題になり、抽象的観念的な議論にとどまることはできない。当事者をいやでも具体的な土俵の上に立たせてしまうのである。

2015年3月11日水曜日

抵抗力が低下すれば、日和見感染症が生じる

抵抗力が低下すれば、日和見感染症が生じる。この意味では、やはり常在微生物も外患に含まれるべきであろう。内憂の原因となる生物としては悪性腫瘍が挙げられると思う。悪性腫瘍細胞はもともとその人の身体を構成している細胞から出てきたものなので、ほかの人の臓器と同じような拒絶反応を受けないが、排除反応がまったく生じないわけではない。問題となる悪性腫瘍は、そのような排除反応を振り切って現われてきたものであろう。

悪性腫瘍細胞は、自分にとっての環境である患者の身体を失えば滅亡するにもかかわらず、普通はその増殖によって患者を殺してしまう。この意味では、悪性腫瘍細胞は環境あっての生物という原理を持っていないことになる。伝染病の考え方からすれば、このような悪性腫瘍細胞はほかの個体へ伝染できなければ滅亡するはずである。しかし、それは一向になくならない。悪性腫瘍細胞は、テンペレートーファージがファージ粒子を作るようなものだろうか。するとプロファージに相当する遺伝子は、生殖細胞を通じて代々、伝えられていることになるだろうか。そう考えれば、悪性腫瘍細胞は常在微生物と似ているところがあるように思える。

2015年2月11日水曜日

深まる孤立感

独力でテポドンを打ち上げ、日米両国を震捕させた北朝鮮は、戦後の東西対立の中で、朝鮮半島を横断する北緯三十八度線を境にして、一九四八年に韓国に続いて建国された国家である。

両者の政治体制は、北朝鮮が社会主義体制、韓国が資本主義体制のため、双方が全朝鮮半島を自国の版図とする唯一の正統国家だと宣言、これまで厳しい対立を続けてきた。

五〇年六月に勃発した朝鮮戦争は、米国と国連が韓国を助け、中国と旧ソ連が北朝鮮を支援する形で、東西両陣営に分かれて戦われたのち、五三年七月に停戦が成立した。以後、四十七年間停戦協定は平和条約に高められることなく、戦争の一時停止状態が今もなお続いている。

この朝鮮戦争で、中国は北朝鮮に加勢したため、中朝関係は「血潮をもって結ばれた同盟」のはずだった。ところが九二年八月、中国は突然、北朝鮮が敵視する韓国と国交を樹立した。

旧ソ連と韓国の国交樹立は九〇年九月で、中国より一足先だった。冷戦終結にともなう旧ソ連・東欧圏崩壊後、唯一の後ろ楯だった中国のこの外交政策の大転換は、北朝鮮に大きな衝撃を与え、孤立化が一段と際立つ事態を迎えた。

朝鮮半島の分断国家の「クロス承認」のバランスを考えるなら、朝鮮戦争を敵味方に分かれて戦った者同士の中韓国交の樹立は、当然のことながら、米朝国交樹立の同時達成が現実化されないと、公平を欠くことになる。それが後回しになったどころか、いつ実現するのかめどすら立たない厳しい状況・・・。北朝鮮にとってそれは、体制の存続にかかわる重大問題となった。

北朝鮮にニラミをきかす在韓米軍は、三万四千人。米国との関係改善を図るか、体制存続の保証を米国から取り付けるか、選択は二つに一つしかない。北朝鮮はいち早く七四年三月に、「米国議会に送る書簡」を発表して以降、米国に対して一貫して、平和協定の締結を提案し、直接交渉を求めてきた。

しかし、米国は北朝鮮を「テロ国家」と断じ、この要求をずっと無視し続けてきた。北朝鮮にとっては切歯掘腕の思いだったが、米国を直接交渉の場に引きずり出すだけの力がなかった。そうした背景から出てきたのが、ほかならぬ「北朝鮮の核疑惑」であった。

2015年1月14日水曜日

限度を知らぬ高報酬

それは不気味な世界だが、それ以上に、その子どもか結婚して子どもをもうけたとき、正常なヒトが生まれてくるか定かではない。今までまったくなかった遺伝子か人類の遺伝子の中に挿入された場合、どうなるか見当もつかない。自然界の多様性の原則が崩れることは自然の摂理に反する。一度クローン人間かできれば人類全体の脅威になる。そこで、現在多くの国がクローン人間の創出については規制を加えている。日本は二〇〇一年、クローン技術の規制に関する法律をつくり、クローン人間に関する研究を禁止し、違反した者は懲役または罰金刑が科せられることになった。ところが、アメリカはクローン人間の創出を法律によって禁止していない。アメリカ政府もよいこととは認めていないので、政府の予算でクローン人間に関する研究を行うことを禁止しているが、それ以上の措置を講じていない。

そこで富豪か自分の分身をつくりたいとして、大金をはたいてクローン人間の技術を開発したい研究者と組んで、実際クローン人間をつくるということは起こりかねない。まさに自由の国だから。しかし、このような自由は許されてよいのだろうか。一度でもクローン人間が生まれれば他の人が真似することはたやすくなり、なかなか止めることができない。したがって、ことか起きる前に決定的な対策をとらなければならないわけで、クローン人間に対し、日本やヨーロッパ加法的な禁止措置をとったのは極めて妥当なことと言えよう。

しかし、アメリカは違う。アメリカにおいては、個人の自由か大きく立ちはだかるのだ。生命分野の科学技術の進歩は著しい。新しい発見や発明が次々と医療や日常生活の分野で利用されはじめている。人間の遺伝子をいじくり回すことができるようになると、病気を治すことばかりでなく、とんでもないことか起きそうである。筋力がずば抜けたスーパーマンや、脳を改変したアインシュタインのような超人が続々生み出されるかもしれない。さらに、遺伝子改変には相当な金がかかるだろうから、金持ちだけか自分の都合のいいように新しい技術を利用していくことになる可能性か高い。欲しい人、つくりたい人の自由を偏重すれば、社会を混乱に導くことは必至である。

生物としての人類の秩序を壊し、人間社会に不愉快と混乱を与えるクローン人間を許す自由か、本当に守るべき個人の自由かどうかは、本質的に問題であり、個人の自由と社会秩序の調和の問題は、これからの大きな課題となるだろう。アメリカにおいては、人種、身分、縁故などに関係なく、個人の実力によってのみ人は評価され、しかるべき仕事率地位などか与えられるという「実力主義」の傾向か強い。これまで学問の世界では、その魅力に駆り立てられ、優れた日本人研究者かアメリカで活躍してきた例がよく知られている。

のちにノーベル賞を受賞することになる江崎玲於奈氏は、IBMで研究者として迎え入れられ、長い間アメリカで研究を行った。石坂公成氏は免疫学で頭角を現し、アメリカ免疫学会の会長にまで登りつめた。野茂やイチロー、松坂など多くの日本人選手か大リーグで活躍し、日本製品だけでなく、日本人個人個人の能力か再評価される契機となった意義はすこぶる大きい。だか、この実力主義もついつい限度を超えてしまう。優秀な人が多くの報酬を得るのは当然だが、自由に報酬か決められるから果てしなく報酬が上昇する。アメリカの会社役員の報酬は桁違いに高い。アメリカの大企業の社長の平均報酬は二〇〇七年度で年間一〇五〇万ドル、当時の一ドル=二一〇円換算で二一・六億円であり、さらに正規の報酬のほかにストックオプションなどの報酬によって、なかには数百億円を得ている社長もいる。