2012年9月3日月曜日

本質上観照的な美的感情

ところでバラの花が「愛らしく」、冬の景色か「さびしげ」で、あれた海が「怒っている」のも、もとをただせば私どもか先方にさずけた私の感情なのだから、自分の気持がゆたかかまずしいか、よろこびで一杯かかなしみでとじこめられているかによって、ものの見え方もさまざまにちかうと予想しなければならない。たとえば梢に風がわたる風景についてみれば、よろこびにみちた人は「木だちが朝のあいさつをしている」とすがすがしく感人するだろうし、悲哀の人は「たんとうちしおれているのだろう」と感人するであろう。

また楽天的な人はかごのなかでないている小鳥をみて、「おまえも愉快にやってるな」と思うか、かなしみと苦しみに感じやすい人は「泣いてるね、かわいそうに」と思いやるにちがいない。(「泣いてるね、かわいそうに」はほんとうは一つの気持ではない。これをほごせば、「泣いてるね」の方は人が鳥になげいれた感情移入であるか、「かわいそうに」はこれとは別の「同悲」の感情である。感情移入そのものは、本質上観照的な美的感情であるけれども、同悲の方は相手の苦しみとおなじ苦しみを自分のなかで感じかなしむ心で、美的ではない)。

感情といえばだれでもそれは人間の心のなかに感じられるものと考えがちであるか、このように「感じられ方」の上からみれば、それは喜怒哀楽のような私どもの心のなかの起伏の感じだけとはかぎらず、文字どおりに「感情は物にもある」のである。そして物にそなわる感情はもともと私たちの心が先方へ移しうえられたものであるから、こちらの心のおりようによって、そめだされ方はさまざまである。そこでこれから、私どもの心によってそめだされた外界のいろいろなありさまをみていこう。