2016年3月10日木曜日

緊張状態の東アジア

国道一号線の全面舗装が完成したのは、ようやく一九六二年三月のことであった。私はスバルで川崎と関西とを往復していたので、その時期をはっきりと覚えている。また、箱根の一号線にはガードレールがなかった。関西から戻って箱根にさしかかる頃は深夜に近いが、そこでしばしば霧にまかれた。ガードレールがないので路肩には寄れない。ドアを少し開けて、中央の白いラインを見おろしながら、それに沿ってそろりそろりと走るのである。

一号線の全面舗装の翌年には、名神高速道路が、尼崎から栗東まで開通した。東海道新幹線が開通しだのが、その翌年-六四年の十月である。新幹線はそれまでの鉄道とは違って、列車の安全停止をコンピュータによってコントロールするので、技術的には運転士がいなくても走れると言われた。コンピュータ時代が身近なものとなった。

そして、その翌年-六五年十月に国鉄はみどりの窓口を開設した。それまでは、主要駅に指定券を買いに出かけると、駅員は予約センターに電話をかけて、空席の有無を確かめ、指定席の番号を知らせてもらっていた。その電話の順番を待ったり、電話がなかなか通じなかったりで、指定券を手に入れるのはひと仕事であった。それがコンピュータにより、いとも簡単になったのである。
 
東アジアでは、ちょうどその頃、アメリカの陸海空軍は全面的にベトナム戦争に介入し、中国もまた防空部隊や鉄道部隊を北ベトナムに派遣し、ベトナムで死闘が続いていたのであった。一九六六年十二月、私は読売新聞の依頼をうけて中国に出かけたのだが、鉄道で香港から深別に入った途端、文化大革命の宣伝工作隊が車両に乗り込み、はなばなしく歌を歌い楽器をかなでるのに、驚かされた。日本とはまるで別世界であった。

当時は文化大革命の初期で、毛沢東の造反有理というアピールによって、民衆による共産党幹部批判が解除されたような時代であった。解放区の初心に帰れというモラルが強調される一方、はじめて自由にモノが言えるという空気が、民衆の中にかもしだされていた。